” 幕末土佐の志士” と聞けば、やっぱり思い浮かぶのは坂本龍馬? 江戸幕府を倒すため脱藩し、薩長同盟や新国家構想をまとめ、維新の先駆けとなった高知の英雄、坂本龍馬。しかし龍馬の他にも、倒幕のため力を尽くし、命を散らした若き志士たちが土佐の地には数々います。幕末~明治にかけての動乱期に、時代を動かし活躍した土佐の男たちってけっこう多いんです。
そんな彼らの業績を称えるため、高知県にはおらが町の英雄の銅像があちこちに建てられています。県内出身の偉人が多いことに加えて、日本を代表する有名銅像作家がこれまた高知出身だからなのか、はたまた単に銅像好きな県民性なのか、とにかくやたらと高知県内にはレベルの高い銅像が多いのです。
そんな銅像たちが群雄割拠する銅像王国高知の中でも、ぜひとも会いに行ってみて欲しい、もし銅像ミシュランガイドが存在するならば3ツ星間違いなし!銅像ジャニーズがいればトップ間違いなし!!の凛々しさ、臨場感、迫力、と3拍子揃った高知県西部のイケメン銅像を3つご紹介します!
今にも動きそうなイケメン志士たち!維新の門の群像
まずは高知県の山間部、愛媛県との県境に近く、脱藩を目論む志士たちが集まった梼原(ゆすはら)の地にある「維新の門」。日本を代表する高知の銅像作家、濱田浩造氏の作品であり、
坂本龍馬、吉村虎太郎(よしむらとらたろう)など土佐藩から脱藩し、倒幕に力を尽くした志士たち8人の銅像群です。
左側の戦闘グループは「行けぇー!」と後ろで指揮をとる吉村虎太郎を中心に、先頭を走る那須信吾、長槍を持つ前田繁馬、刀を抜こうとする中平龍之介の4人で構成されています。
横から見てみましょう。銅像とは思えないこの躍動感、すごくないですか?
吉村虎太郎の高く上げた右手、その前を走る3志士。辺りから風が舞い上がり、地響きや金属がぶつかる音、戦いの雄叫びなどが聞こえてきそうで、思わず耳を澄ませてしまいます。
4人ともたまらなくカッコいいのですが、この中での私のイチオシは中平龍之介。1863年に土佐藩を脱藩し、翌1864年の禁門の変(蛤門の変)で長州中勇隊の一員として会津藩と戦い、わずか22歳の若さで戦死してしまったこちらのイケメン君です。
「禁門の変」では大河ドラマのせごどんこと、薩摩の西郷吉之助が活躍しました。西郷吉之助の名前が広く世に知られることとなった事件ですので、もしかしたらドラマでも詳しく描かれるかもしれませんね、
なんとなく、せごどんの鈴木亮平さんに似ているような…気もします。
まだ22歳、現代なら大学を出たばかりの社会人一年生です。この角度から見ると、凛々しさの中にまだあどけなさも残るような表情をしてますね…。
そして2Dではない、3Dのイケメンを心ゆくまで眺められるって眼福です!至福のひと時です!癒されます!
疲れた時、凹んだ時、リフレッシュしたい時、ホルモンバランスを整えたい時、などなど少し遠いですが飛行機に乗って、高知県梼原町の中平君に会いに行ってみてください。梼原の森のグリーンセラピー効果と相まって、癒し効果バッチリですから!
つくづく今にも動き出しそうなこの躍動感!ホントかっこよすぎるこの雄姿!!
勇ましいこちらの戦闘グループ、中平龍之介以外の3人も天誅組として幕府軍と戦い、禁門の変の一年前の1863年に全員壮絶な戦死を遂げています…。
そして中央で手を合わせる掛橋和泉と、右側の脱藩の道を行く3人。
実際の龍馬脱藩時は、左側グループの那須信吾も土佐と伊予の国境の韮が峠(にらがとうげ)まで龍馬に付き添っていました。
龍馬を真ん中に、先頭で道案内をする信吾の父の那須俊平と後ろの澤村惣之丞。
戦いの音が聞こえてきそうな左側の戦闘グループに比べると、こちらの3人は迫力のある動きはしていません。が、代わりに静かな動とでも言ったらよいのか、この場の凛とした空気感、遠くを見つめる3人の心の中なのか、何か目には見えない強い力が感じられる場面です。
誰かのつぶやきが聞こえてきそうで、やっぱり耳を澄ませてしまいますね…。
3人が見ている風景がこちらです。指差す方角にあるのは…山!ですね、現在ここからだと。
梼原周辺には龍馬が脱藩した時代からあまりかわらないような、人が入らない深い山々が続きます。それに龍馬が実際に歩いたとされる道が「脱藩の道」として残されていますので、この銅像たちが実は夜中に歩いていた(!)としても道には迷わないかも。
銅像裏には作者の濱田浩造氏のサインが刻まれています。ハマダ作。あっさりしたサインです。
それから、カッコいいからって近くに寄りすぎてはいけません。代官所よりおふれ書きがありますのでご注意ください。
臨場感がすごい!ジョン万次郎と仲間たちの群像
お次はこちらのジョン万次郎と仲間たちの像。維新の門と同じ濱田浩造氏の作品です。イケメンという枠からは少し外れますが、濱田氏作品らしい、まるで生きているかのような銅像の表情、臨場感が素晴らしい群像です。
南海の孤島に漂流した漁師仲間の彼らが通りかかる船に救助を求めに行く様子を、島にぶつかる荒波をバックに表現されています。
維新の門の志士たちと同じ幕末期を生きたジョン万次郎。坂本龍馬より9歳年上の1827年生まれ。ですが、この万次郎少年は14歳。
上着を振って船に合図を送るつもりなのでしょうか?
太陽の眩しさに目を細めながら、沖を行く船に向かって走り出す万次郎。
「助けてくれぇー、待ってくれぇー!置いていかないでくれぇー!」
船を追いかける仲間たち。
足をケガして動けない1人も仲間に助けられながら、一生懸命進みます。
かなり痛いんですが、ここから出たい一心なのでしょうね…必死の形相で、つかまっている着物が破れそう。
「えッ!歩いてる!?」と、こちらのお方は船よりも上の写真の人が歩いたことに、ビックリしたような顔をしてますね。
冷たい金属で出来ている銅像とは思えない、生命の躍動感が生き生きと感じられる万次郎と仲間たちの像は足摺岬がある土佐清水市にあります。隣りにはジョン万次郎資料館もありますので足摺岬観光の途中に立ち寄ってみてください。
凛々しすぎる吉村虎太郎像とランチもできる虎太郎邸
吉村虎太郎像
最後は梼原町の隣りの津野町にある吉村虎太郎の像。維新の門の戦闘グループで、龍之介クンの後ろで指令を出していた、あの方です。
全国的な知名度はありませんが、地元高知では有名な土佐藩脱藩の志士第1号の吉村虎太郎。 庄屋の息子として生まれ、裕福な暮らしをしていたにもかかわらず、新しい国家建設のために立ち上がり、倒幕に向け天誅組を組織し、奈良県の吉野山で幕府軍と戦って27歳の若さで亡くなりました。
頭がよく理知的で、脱藩するまでは庄屋として、村民の生活を第一に考えて善政を敷いた虎太郎。村人たちから大変慕われていたそうです。
維新の風を身にまとい、伊予との国境の方角を熱いまなざしで見つめています。前の2つの像と比べると荒削りな感じですが、それがまた疾風のように現世を通り過ぎていった虎太郎の生きざまをより表現しているようでもあり、とにかく凛々しいのです!
安定した裕福な暮らしを捨て、倒幕に命をかけた虎太郎。残念ながら志半ばで散ってしまいましたが、辞世の句の「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」など、その太く短い生きざまがカッコよすぎ!と地元高知では龍馬以上に人気がある人物です。
吉村虎太郎邸
虎太郎像から車で5分くらい行ったところにあるのが、文化的景観ガイダンス施設「吉村虎太郎邸」。
大きな茅葺屋根を載せた邸内の中は、
虎太郎やゆかりの人物たちに関する資料が展示されており、無料でくつろぎながら閲覧できるようになっています。
訪れる3日前までに予約を入れておけば、地元津野町産の旬の食材を使った「虎太郎御膳」を邸内で食べられます。こんなにいっぱいあって、なんと1500円という嬉しいお値段!
津野町特産品のほうじ茶パウダーと大福のハーモニーが絶妙に美味しい「満点の星大福」も付いています。
虎太郎邸がある津野町は標高1300mを超す山々が連なる四国カルストの麓にあり、四万十川源流点がある不入山(いらずやま)を抱える自然豊かな山間のまちです。虎太郎も渡ったであろう流れ橋なども残っており、ゆったりとした奥四万十のおだやかな時間に身を任せ、リラックスできる場所です。
今年の夏休みはイケメン銅像たちに会いながら、高知の海と山でのんびりリラックスしてみてはいかがでしょう?
維新の門
住所:高知県梼原町川西路2327
萬次郎少年像
住所:高知県土佐清水市養老
吉村虎太郎像
住所:高知県高岡郡津野町力石
吉村虎太郎邸
Web:http://tsuno-yoshimura-torataro.com/
住所:高知県高岡郡津野町芳生野甲1456
おまけPHOTO
虎太郎では幕末の衣装を貸し出しており、レンタル衣装のまま周辺散策が楽しめます。
虎太郎邸前の北川川にかかる、沈下橋の原型と言われる流れ橋「早瀬の一本橋」。
打ち間違いではありません。本当に北川川なんです。
ついでに四万川川ってのもあります。
死をいつも感じながら生きていた虎太郎。
虎太郎邸近くの恋のパワースポット。
天空の別天地、標高1300mの四国カルスト。