こんにちは。まめてっぽーです。先週末から大寒波来日中の寒い日本列島、雪国の方大丈夫でしょうか?受験生の方、女子駅伝の方もお疲れさまでした。雪にあまり縁がないまめってっぽーは雪!🎵♪とちょっとワクワクしたりしたんですが、こちら南予地方はちょっとだけチラチラっと降っただけで積もるに至らず、ちょっとがっかりなのでした。
さて、今日はギザギザの由良半島ツーリング第三弾、ということで、前回レポートした船越地区より陸路で行ける半島の最深部、網代地区までをご案内と網代地区開拓の祖、近代漁業の父とも呼ばれている内海村出身の知られざる明治の偉人「浦和盛三郎」についてのレポートです。歴史レポ部分は画像はなく文のみで長いですが、面白いエピソード満載です!頑張って読みやすくまとめましたので(つもりですので 笑)みなさんも是非、頑張って読んでみてくださいね!
ルート
船越運河手前の県道292より
正月2日の初乗りツーリング、蘇家神社に行った帰り道に由良半島に寄り道してみました。いい天気で1月とは思えないほど暖かな日でしたが、やっぱり夕方になるほど風が強くなってくる冬の天気なのでした。
海の上もだんだん波々。由良半島はこんな感じでカーブのアップダウンが続きます。
途中、かなり狭路となっているところもありますが、大型バスも通るので、すれ違いに注意です。
高さも結構ありますが、キチンとガードレールがあるので怖さは感じない道です。
リアス式由良半島の奥には、先ほど行ってきた西海半島が見えます。
船越運河
由良半島の真ん中、一番細い部分を掘って作った船越運河。この運河が出来たおかげで船にとってはかなりのショートカットができるようになりました。
道路もここで由良半島南部の愛南町を走る県道292号と、北部宇和島市津島町を走る県道318号が交差します。これは292号でこの写真の左手手前から318が出ています。
こちらは運河の北側宇和島津島方面。
南側はこんな眺め。運河右側が船越地区になり、小さな集落と釣りの渡船屋さんがあります。
船越運河と船越地区については、こちらの記事をどうぞ。
県道292号の高さとよくあるパターン、陸上から行けないビーチ
船越運河を越えて、2車線にきちんと分かれている部分もあれば、カーブを曲がればいきなりの狭路になったりの、相変わらずのそんな調子の県道292号を奥に進みます。
半島のかなり高い部分を通っている県道292号。由良半島では林業は行われておらず、みかんの木もあまり見かけないので、大部分は手付かずの山の様子です。
ビーチもこのようにきれいなところがありますが、波が荒いのか、降りて行けるようには開拓されていません。断崖の下はきれいな浜なのに、降りていけない!というのは愛媛南部~高知西部でよくあるパターンですね。。
魚神山(ながみやま)地区
南部で一番大きな集落、魚神山地区。一番大きい、といっても住んでいる人が他の集落と比べて多いだけで、スーパーやコンビニなどのお店はありません。
ここも他の地区と同じように 真珠、ブリやタイの養殖などが行われています。
同じところからのショット。こちらはiphoneで撮ってみました。
車がギリギリすれ違いが出来る程度の道路が一本集落の中を通り、その道路から人が歩ける程度の細い路地が枝状に出ています。南予地区の漁村はだいたいこのような造り(?)になっています。
南部地区で一番大きいと言っても、スーパーやコンビニ、飲食店はなく、郵便局とちいさなJAのよろず屋みたいなのが一件あるだけです。
魚神山地区より奥の地区は、全て江戸~明治期に魚神山地区に住んでいた人が開拓し、新しく作った地域です。
魚神山地区南端より地区入口東端を臨む
由良半島は真ん中部分の船越地区までは西に真横、それを過ぎるとこの魚神地区に面した内海湾を底にして南にUに広がった形をしています。
イケスがぎっしり並んだ内海湾ですが、こんなにキレイな青い色をしています。
そして、 集落に向けてはダウン、集落を出るとまたアップが続く相変わらずの県道292をさらに奥に進みます。
半島さいはての地、網代(あじろ)地区
そして、そしてここが由良半島、最奥、最果ての地、網代地区です。たくさん散らばっている黒いボールみたいなのは真珠養殖に使うブイ(浮き)です。
ここまで宇和島バスは来ています。さすが!
宇和島バスって普通のバスの大きな車体でいろんな細い道をうねうね行くんです。すごいな~!といつも感心してしまいます。
陸路では行けないですが船で上陸可能な半島の本当の端っこ、由良岬には旧日本陸軍の潜水艦探知施設、由良崎(ゆらのはな)防備衛所という廃墟があり、マニアな方たちが時々訪れてらっしゃるみたいなので、、
行ってはみたいと思っているのですが、そこまで近づく道をナタなどを持って自分で切り開いていかなければならず、野生動物も多いそうなので… ウーム…( ̄ー ̄)。
地区の端はこのように行き止まりになっています。(少し見えている細い道と階段もすぐきれています。)
そしてこの先、魚神山地区から網代地区までの区間と同じくらいの領域が、道なき手付かずの山の状態で残されています。
ここに住んでられる方の祖先がこのような山を開拓して行って、ここの地区が出来たんですね。すごいですねぇ。。
僻村の起業家、明治の快男児「浦和盛三郎」
グーグルマップに「目関釣りセンター」と記載されている、エストレヤの後ろにあるこの大きな木造2階建ての建物は、明治の僻村の起業家として知られる浦和盛三郎によって建てられた ”漁業製造家屋” (魚の加工場)です。
「加工すれば魚だって日保ちする」という発想が生まれたばかりの近代漁業の黎明期の明治時代において、時代の最先端を行く「魚類製造家屋」を網代に建て、僻地の網代村を一躍時代の中心にさせた浦和盛三郎。
志半ばで早逝してしまい、子孫も残っていないため、今では時代の流れとともに忘れ去られてしまっている人物ですが、ポツポツと残っている記録を読んでいくとなかなかの好漢で、あと10年20年生きていてくれたら日本の歴史が変わった!とは言い切れませんが(笑)、南予地区、愛媛の歴史が変わったことは間違いないユニークな偉人です。
明治の豪傑浦和盛三郎! 数々のユニークな逸話!
網代の開拓者、浦和儀右衛門の子で、盛三郎が生まれた頃には網代の地主網元になっていた浦和盛次兵衛の末子。浦和家の開拓史自体面白い(?)い話で「網代開拓由来記」として愛南町の文化財に指定されています。
イギリス士官を投げ飛ばした!?
慶應2年(1886年)イギリス艦隊のプリンセス・ローヤル号が宇和島港に入港した際、盛三郎は仲間の青年藩士と連れ立ってそれを見学に行き、イギリスの士官から剣の立会いを挑まれたそう。連れの青年藩士たちが尻込みする中、度胸が据わっている盛三郎だけが勝負を受けました。
「ちびの日本人」と舐めてかかった英国士官に対し盛三郎の得意のもろ手突きが決まり、油断していた英国士官は甲板に仰向けに長々伸びたと云われています。
日本の近代化漁業の父
大網元としてそれぞれの漁が効率よく出来るよう、さまざまな網の改良や創作、水産物の加工についての研究など、明治の黎明期の水産業界において、当時の内海村はおろか日本の近代化漁業のためにかなり貢献したと伝えられています。上の写真の「漁業製造家屋」にしても、10坪そこそこの粗末な家が立ち並ぶ海辺の小さな僻村にいきなり144坪の大建築が出来、村人は度肝を抜かれたそうです。
百姓一揆の時代、宇和島でも庄屋田中家が襲撃される
幕末期には幕府の圧政に立ち向かう百姓一揆が各地で起こっていました。「そーんな物騒なことはこの辺では起こらんなーし」とのんびり構えていた南予の漁村ですが、宇和島三浦の庄屋の田中家が一揆で攻撃されます。
大網元であった田中家は、所有していた土地を網子に小作させ年貢を納めさせて、田中家から離れられないようにしていました。それに海という自然の恵みをうけることが平等であるはずの漁業においても、船、網、網干場、と生産手段の全てを田中家が持ち、労働だけを網子にさせ、不平等を生じさせていました。他に酒屋、質屋も行い、村人たちから絞れるだけ搾っていたようです。人間が平等ではなかった江戸時代には地主と農民との格差は当たり前だったんですね。
村人からの攻撃を受け、”田中庄屋宅は金戸棚を始め、道具類など一切合切外へ出され痛められ、鉄砲10丁も石に叩きつけ壊されて、ただ家枠だけが立っているという有様” と記録には残っています。そして庄屋の一族はひっそりと夜中に、船で高田村の親戚まで逃げて行ったのだそうです。
外さない時代の先読み!大隈重信や犬養毅とも
この田中家襲撃ニュースが他の村々に知れ渡った時、他の網元地主たちは「下っ端たちめがやりおった!」と不安を持って驚いたそうですが(当然ですよね~)、盛三郎だけは「現場の人間が力を持つようになる、この時代の流れは当然!」と地主立場のくせに(笑)平然としていたのだそうです。これは浦和家が昔からの大網元ではなく、新しい土地から生まれてきた新勢力の網元だったことから、庄屋襲撃というショッキングなニュースは、盛三郎にとっては好機として受け取っていたようです。
そして、盛三郎はその後の明治政府の農地改革を受け、従来の封建的な網元と網子の関係からは考えられない新しい網代村の決まりをつくり上げ、村人たちが各家単位で労働報酬を得やすい環境に村を整えます。
他にも私財を投じ、村への菩提寺の誘致、小学校の創立、村内の三地区をつなぐ道路の建設を行いました。
村外での活動としては、御荘為替店を創立して中小企業へ積極的に融資したり、大阪商船の圧力で窮地に陥っていた宇和島運輸を社長となって立て直し大阪・別府両航の確保、また大阪に一人乗り込んで伊予物産会社を創立し、利益を独占していた大阪商人と対抗し「網代海王」とも言われていたそうです。
豪快でユーモアがある盛三郎のチャーミングな人柄は人を惹きつけ、日本の中枢にいる大隈重信や犬養毅とも親交があったと云われています。
「タコに大根!?」ゴッドファーザー盛三郎、昭和天皇を笑わせる
明治3年(1870)の大政官令により、日本国民すべてが苗字を持つことになりました。でも当時人々の多くは、教育も受けさせてもらえず、漁業や農業に従事させられていました。 ”魚神山のじろう” ”網代のへいきち” とか ”へいきちの女房のうめ” とかそんな呼び名が通用していたと思われます。当然苗字の意味も分からないので、網代村では大旦那の盛三郎が村人の苗字の名付け親を頼まれます。
すると、盛三郎は村内の三集落のうち、
荒鰹集落の人々には麦田(ばくだ)稗野(ひえの)粟野(あわの)大根(おおね)真菜(まな)根深(ねぶか)など野菜の名前、
本網代集落の人には太古(たこ)浜地(はまち)鈴木(すずき)鱒(ます)岩志(いわし)と魚そのまま(!)、
本谷集落の人には大目(おおめ)木綱(きつな)目関(めぜき)松綱(まつつな)など漁具の名前を付けてしまいます。
昭和25年に昭和天皇が内海地区を行幸の際にこのユニークな苗字の話をお聞きになり、「面白いね!」と声を出してお笑いになったそうです。
一見するとふざけているような名付け方ですが、ちゃんとした理由があったそうです。新しく出来た網代という村の本拠地、盛三郎の身内や開拓当初からの同志がいる本谷集落には、網元が開拓したんだ!というルーツ伝承の意味を込め、自分たちが使っている漁具の名前を付け、他の集落には豊漁、豊作の祈願をこめたんだそう。
地の果ての僻村を日本一の村にしよう!と夢見た男の、生産共同体、運命共同体としての村を苗字にあてはめて表現したのだと伝えられています。
内野聖陽さん主演でドラマ化されます!(嘘です!笑)
明治23年(1890)大阪に「伊予物産会社」を立ち上げ、2年後にはそれも軌道に乗り増々好調の盛三郎、久しぶりに大阪から故郷の内海村網代に帰ることにします。が、その帰省途中の松山で、突然倒れ息を引き取ってしまいます。
その後、浦和家は没落、流行り病で一族も次々になくなり、盛三郎の記憶は歴史から忘れ去られました。
時は過ぎ、当時松山工業高等学校教諭だった犬伏武彦氏が、網代集落に残る漁業製造家屋から盛三郎に辿り着き、「浦和盛三郎伝」としてまとめた盛三郎の伝記が1992年に出版されました。(ここに載せたエピソードも主にそこから抜粋、リライトさせていただきました。)
私も今回網代地区を訪れ、この魚類製造家屋の時を超えた存在感にびっくりし、調べてみたところ浦和盛三郎の存在を知りました。上記の通り、記録はあまり残ってないのですが、面白い人物だったことは間違いなく、内野聖陽さんあたりが演じてドラマにでもしたらヒットしそうです。どこか作ってくれませんかね~(^^)/
当時盛三郎たちが整地して、石垣を積んだりして、港の形に整えた網代の小さな港。
岸壁から海中を覗けば、この青さ!
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今日はここまでです。読んで下さってありがとうございました!
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凄い!
よくここまで調べて、読みやすくまとめてくれていますね!
面白かったです。 有難うございました。
南国さん
嬉しいお言葉ありがとうございます(^^♪
こんな面白い人物がいたのになぜ知られてないんだろう?と長くなりましたが、一つのブログにまとめちゃいました。
南予地区って明治の時代に面白い人物を数々出しているんですね~。やっぱり広々大きな海は大きな人物を育てるのでしょうか!(^^)/